記憶の座標
――あの時やり直せたらって、思ったことはありますか?――
主人公――36歳の会社員。穏やかな妻と、小さな娘と暮らしている。
満たされていないわけではない。だが、ふとした瞬間、過去を振り返ることがあった。
受験は失敗した。でも、その大学生活で出会った仲間、経験は悪くなかった。
「あのときと同じ人生なら、また失敗しても構わない」
主人公はそう思っていた。
だが、ひとつだけ胸に残るものがあった。
大学時代、好きだった女性――たぶん、あのとき、彼女も自分に気があった。
けれど、核心に迫る言葉をお互い交わさず、時間だけが流れてしまった。
あれから何年も経った。
今さらどうにもならない、と思っていた。
そんなある日、目が覚めた瞬間、彼は時間を遡っていた。
戻ったのは、高校卒業直前、大学入試を控えた冬だった。
――最初は戸惑った。けれどすぐに思った。
「これはチャンスだ」
彼は計画的に人生をなぞっていく。
受験にはあえて失敗する。
過去にあった日々を再現するように。
親に感謝し、丁寧に人と接し、勉強にも励んだ。
やり直せることの素晴らしさに、日々は満ちていた。
しかし、少しずつ違和感が忍び寄る。
「あれ?この人、こんなに明るかったっけ」
「この出来事、こんなタイミングだった?」
ほんの小さなズレが積もっていく。
思い出した通りの言葉を使っても、会話の流れは微妙に変わる。
1分、1秒のズレで、友人との関係性が変わっていく。
そして気づく。
あの時の彼女――大学で出会うはずの、好きだった女性にも、違う形でしか出会えなかった。
初めて話した時、彼女の表情は記憶の彼女とは違っていた。
それどころか“どこかで見たことある気がするけど思い出せない”というような距離感さえ感じる。
相思相愛どころか、ただの“知り合い”としてしか見られていなかった。
バタフライエフェクト。
ひとつの小さな羽ばたきが、小さな波紋のように広がり世界を変える。
そんな言葉を記憶の断片で思い出した。
どんな小さな言葉も、行動もすべてが自分の存在していた未来への布石だった。
彼が丁寧に発したひとつの言葉が、
善意で渡したノートが、
偶然に起きた一度の寄り道が、
彼の軌道をわずかに、しかし確実に逸らしていった。
焦りがにじむ。
「どこで、何を間違えたんだ?」
彼は再現しようと試みる。
毎日、何時にどこへ行き、誰とどんな会話をしたか。
ノートに記録し、再演しようとするが――うまくいかない。
すべてを記憶していなかったことに気づく。
未来が遠ざかっていく。
気づけば、妻と出会ったはずの職場にも、彼女の姿はなかった。
彼女はその会社に入社してこなかった。
出会いの偶然すら、もう失われていた。
嫌な人とは、出会ってから避けることはできた。
何が起こるか、どう振舞えばいいのか、それは知っていた。
けれど――会いたい人に“どうやって”出会えばいいのかは、誰もしらない。
好意はいつどのように芽生えるかわからないから。
彼の中の時間軸は未来へと進んでいたが、
現実は過去に囚われ続けていた。
彼は、未来に焦がれて過去を追い、
過去に縛られて未来を見失っていた。
そして、気づいたときには、
彼は“知っていた未来”にも、
“望んだ未来”にもたどり着けなくなっていた。
目の前に広がるのは、
まったく見たことのない――
選んだこともない――
けれど、確かに存在する“今”。
彼は立ち尽くす。
それでも、足元には一匹の蝶が羽ばたいていた。
その音は聞こえない。
けれど、その羽ばたきはきっと、
また誰かの未来を、そっと揺らしている。
自分もまた、誰かの座標を動かしながら、
知らぬうちに支えたり、影を落としたりしていたのだ。
彼は小さくつぶやいた。
「……ありがとう」
それが誰に向けた言葉だったのか、自分でもわからなかった。
彼は新たな時間に、歩み出しはじめた。
まだ見ぬ未来へと―孤独と希望と不安の入り混じる上を――。
彼の前に一羽の蝶が、定まらない軌道の上で揺れていた。
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