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Rein

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純粋な混じり気のない種
その花が咲くのはいつだろう。
春は私
夏はあなた
秋はあの人
冬は誰か
小さな芽
伸びた茎
雨風に吹かれ
じっと耐える寒さ
それぞれが成すことがあり
実がなる時期がある
咲くことだけにとらわれないで
純粋な想いが繋がって
混じり気のないものがいずれ咲くから
Carnation

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出来るなら
私はこの目で見届けたい
それが叶わぬこともある。
この意志も、魂も
消えて無くなるものなのか
いいえ
あなたの想い
この地上に留めましょう
あなたの意志を受け継ぐ限り
誰かが成すその日まで
想いは死なない
それが私が贈る
輪廻転生
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作品解説
私は以前、あるゲームのテーマ曲を作曲しました。
転生した主人公が冒険する内容のゲームだったので、Reincarnationの文字を使って作曲してほしいとご希望でした。
Reincarnation、輪廻転生という意味ですね。
Reincarnationの文字がとても多くて、どうやってこの文字を使用して曲にしていこうかものすごくものすごく悩んで頭がはげそうだったのもいい思い出です。(笑)
この曲を作る中で、「転生」とは何なのだろうと考えさせられるきっかけを得ました。近年では転生をテーマにした物語が流行し、「転生」という言葉自体は身近になりましたが、「輪廻」という概念を深く考える機会は少ないかもしれません。
輪廻とは、生死を繰り返すこと。
車輪が回転するように、霊魂が次々と他の生を受け、迷いに満ちた生死を繰り返すことだとされています。
英語の「Reincarnation」とも共通点はありますが、仏教の「輪廻転生」が持つ死生観とは少し異なるニュアンスが含まれています。
英語の「Reincarnation」は、「Re(再び)」「in(~の中に)」「carnation(肉体)」という語源から成り立つ言葉で、「魂が再び肉体に入り、生まれ変わること」を意味します。
この「carnation」という言葉は、ラテン語の「carn(肉)」から派生しており、私たちがよく知る花の「カーネーション」の名前も、肉の色に似ていることから名付けられたそうです。
このように、Reincarnationという言葉には「肉体を得て再び現れる」という物理的・具象的な意味が強く込められています。
一方で、輪廻転生には「生死の循環」や「迷妄を繰り返す」という仏教的な精神性が重視されています。
これらの違いを考えるうちに、「転生」や「精神」を象徴する二枚の絵を描きました。
一つは「Rein(純粋な)」、もう一つは「Carnation(肉体)」という作品です。

私はこう考えます。
人の魂や精神が生き続け、他の人に受け継がれることもまた、一つの輪廻転生ではないのかと。
その人の精神が他者に影響を与え、新たな行動を生み出す――それはまるで種が次世代に受け継がれ、いずれ花を咲かせるようなものだと思うのです。
私の好きな歴史の人物に吉田松陰がいます。
有名な幕末の志士たちにどれだけこの人が影響をあたえたことでしょう。
私も松陰の言葉になんど勇気づけられたかわかりません。
松陰が残した留魂録というものがあります。
獄中でつづった松陰の最期の言葉や思想や想いが綴られており、格調高い遺書文学の傑作と言われています。
死に直面した人間が、ここまで正面から死と向き合い悟れるのかと、読んだ時は驚きと共にその内容に涙しました。
【第八節(現代語訳)】
一、今日、私が死を目前にして、平穏な心境でいるのは、春夏秋冬の四季の循環という事を考えたからである。
つまり、農事で言うと、春に種をまき、夏に苗を植え、秋に刈り取り、冬にそれを貯蔵する。秋、冬になると農民たちはその年の労働による収穫を喜び、酒をつくり、甘酒をつくって、村々に歓声が満ち溢れるのだ。この収穫期を迎えて、その年の労働が終わったのを悲しむ者がいるというのを聞いた事がない。
私は三十歳で生を終わろうとしている。
未だ一つも事を成し遂げることなく、このままで死ぬというのは、これまでの働きによって育てた穀物が花を咲かせず、実をつけなかったことに似ているから、惜しむべきことなのかもしれない。
だが、私自身について考えれば、やはり花咲き実りを迎えたときなのであろう。なぜなら、人の寿命には定まりがない。農事が四季を巡って営まれるようなものではないのだ。
人間にもそれに相応しい春夏秋冬があると言えるだろう。十歳にして死ぬものには、その十歳の中に自ずから四季がある。二十歳には自ずから二十歳の四季が、三十歳には自ずから三十歳の四季が、五十、百歳にも自ずから四季がある。
十歳をもって短いというのは、夏蝉を長生の霊木にしようと願うことだ。百歳をもって長いというのは、霊椿を蝉にしようとするような事で、いずれも天寿に達することにはならない。私は三十歳、四季はすでに備わっており、花を咲かせ、実をつけているはずである。それが単なる籾殻なのか、成熟した栗の実なのかは私の知るところではない。
もし同志の諸君の中に、私のささやかな真心を憐れみ、それを受け継いでやろうという人がいるなら、それはまかれた種子が絶えずに、穀物が年々実っていくのと同じで、収穫のあった年に恥じないことになるであろう。
同志諸君よ、このことをよく考えて欲しい。
松陰自身は、自分は何かを成せたかと言えば成し遂げることはなかったけれど、自分の花は咲かせ、実りを終えたのだと言っています。
そして自分のまいた種を絶やさずに年々実らせて受け継いでいってほしいと願っています。
彼は自分が成し遂げられなかったことを嘆きつつも、自分がまいた種を誰かが受け継ぎ、花を咲かせてくれることを信じていました。
意志や想いを継ぐならば、それもまた輪廻転生の一つの形ではないかと。
私はそう思うのです。
その人の精神が滅びずに、次々と他の人々の中で肉体を得て巡る。
いずれ咲く花のために、次なる人がその精神を受け継ぎ、さらに次の人に託す。
そして、いつかその精神が成就し、花を咲かせる時が来る――そのように感じています。
花を咲かせることができなかった途中の段階の人は、ずっと冬のままだったのでしょうか。
そうではないのです。
どの段階にある人の人生にも、春夏秋冬があり、役目を終えた時にはその人なりの実りがあったのだと思います。
そして、その人が直接成し遂げることができなかったとしても、精神を受け継いだ次の人がそのバトンを引き継ぎ、やがて花を咲かせることができるなら、その人の人生もまた、花を咲かせ実を結んでいるのです。

また松陰の辞世の句にはこうあります。
「身はたとい 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂」
たとえ自分の肉体が滅びても、その精神=魂を後世に残したい――そう願う想いが込められています。
松陰が遺した言葉や思想は、幕末の志士たちに受け継がれ、彼らの行動を通して新たな花を咲かせました。
その花が大輪であったかどうかは歴史の評価に委ねられるべきですが、重要なのは、松陰の精神が途絶えることなく引き継がれたという事実です。
私は、このように精神が受け継がれていくことを輪廻転生の一つの形と捉えています。その人が生きた意味や精神が、次の人々の中で新たな形を得て受け継がれていく――これこそが永遠に続く「生」の姿ではないでしょうか。

純粋な種は、いつか美しい花を咲かせるでしょう。
しかし、その時期がいつ訪れるかは誰にもわかりません。
それでも私たちができるのは、その時を信じて、自分の役割を全うすることです。
そして、自分の人生を感謝とともに振り返るとき、その人生にもきっと春夏秋冬があったことを感じるでしょう。
私もまた、自分がやり遂げたいことを目指しつつ、一日一日を大切に過ごしていきたいと思います。
そして私の作品や言葉が、
誰かの心に種を植え、その人の中で新たな花を咲かせるきっかけとなれば、
それ以上の喜びはありません。
Maho












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