Memento seriesが始まってからさまざまな光を描いてきました。
今回からは繋がりのあるシリーズとして描きたいテーマが頭の中に降りてきたのでそれらを作品にしていこうと思います。
そしてその連作の第一作が今回のPortaです。
続き物は夏の大三角の「ベガ」「アルタイル」「デネブ」と前回も製作していますが今回はおそらく6個くらいつづくんじゃないかなぁと思っています。
Portaとは扉や城門という意味です。
今回の作品は扉をテーマにした作品です。
私はお風呂に入っていた時に、急にある言葉が頭の中に響いてきました。
「閉じた扉はもうあかない。もう閉じってしまった扉を開こうとするのではなく次に開く扉を探しなさい。閉まった扉の次には開く扉がどこかにある」
という言葉でした。
何の言葉だろうと思ったのですが、閉じた扉を気にしている自分がいるのだろうかとふと思わされました。
聖書には、神は試練と共に脱出の道を備えてくださるという意味の箇所もあるのですが、そのニュアンスを含みながらもそれとはまた違った意味合いも込められたメッセージに私には思えました。
私は「閉じた扉」「新しい扉」というワードでネット検索をしました。
すると二人の人物が似たような言葉を残していました。
電話機の発明者グラハム・ベルと、奇跡の人ヘレン・ケラーです。
どちらもこのような言葉でした。
When one door closes, another opens; but we often look so long and so regretfully upon the closed door that we do not see the one which has opened for us.”
「一つの扉が閉じるとき、別の扉が開く。
しかし、我々はしばしば閉じられた扉を
あまりにも長く、後悔しながら見ているので、
我々の目の前に開かれている扉を見ていない。」
なんだか私の頭に降りてきた内容と似ていて不思議でした。
もしかしたらこんな風に同じように気が付かされる言葉というのは地域や世代や人種を超えてあるのかもしれないです。
私はここ数年はあまり新しいドアをあけていなかったかもしれないです。
いえ、厳密にいえば、
開けていても自覚がなかった、が正しいかもしれません。
そしてまた閉じた扉の前に戻ってきて、
どうやって開ければ上手くいくのか、自分も周りにもいいのかを立ち止まって考えている
そんな状態だったように思います。
そしてその閉じた扉がある部屋の中は暗かった。
その中には楽しませてくれるものや、明るくさせてくれるものはあったように思います。でもそれを使って明るくする方法は二の次でした。
そしてそれらがあることにも気が付いていなかったです。
それはその部屋が暗かったから見えなかったのです。
《暗いと不平をいうよりも、進んであかりをつけましょう》
という言葉があります。
いい言葉だなと思います。
でも逆に
それもできない時があるんだよ。
と反発したくなる自分もいます。
沈み切ってしまったり、心を病むとそんな簡単なことができないの!って時があるんです。
たいていそういう時って閉じ込められたような閉塞感か
なにもない空間にいる感覚。
その中では、灯した明かりではまるで防空壕のように感じるのです。
閉じ込められた中で幸せだと思えるものを探す。
そのような感覚ですかね。初めはそれも心を明るくさせてくれるものなのですがだんだんとそれが偽物のように感じてくるのです。
例えば最近どういうときに怖くなったり変な感覚に襲われたりするかなと思いだしてみたのですが、
もう戻れないことや場所
空間の中で扉が閉まってしまうこと
だったなと思います。
戻れないことや物に関しては、楽しいことはもちろんですが、逆に大きな愛着があったり自分にとって好ましいものではないものにもです。
「そういえばあれってもう二度と体験できないんだな」とか「もうあの空間に行くことはできないんだな」と思うと不思議な感覚になって怖くなるんです。あれって本当にあったの?というか。
例えばの話で、私は従妹、従弟と年齢が近かったので、小さいころから夏休みや冬休みになってはお泊り会をしたり、ゲームをしたり、少し大きくなるとご飯に行ったり、カラオケして楽しんだりと本当に仲がよかったです。
それでもみんな結婚して、そして子供が生まれて、別々のところに住んで、中心が次の世代になると
あの楽しかった時はもう帰ってこないんだな、
あの時の感覚はみんな覚えているんだろうか、
おじいちゃんおばあちゃんやみんなで楽しく布団をならべて寝たあの空間にはもう戻れないんだと思うと、
悲しくてポロって涙がでるんですね。寂しいという感覚でしょうか。
私達の写真が飾ってあった場所は次の世代の写真になっていて、なんとも切なくなるのです。
また共にずっと暮らしてきた愛鳥や愛犬が、どんなに権力のある人の力でも
もうこの世で会うことが出来ないどうしようもない事なのだと思うと、
帰ってこない時間に対しての後悔よりも、この先こんな風にずっと大切な人達と別れる人生が続いていくことに怖くなります。時間を戻りたいと思ってしまうのです。このまま進むのが怖いのです。
他には、新幹線とか、バスとか、扉が閉じるともう戻れないとかふとそういう考えになると怖くなったりします。変な人なんです私って (笑)
重力がなくなったら世界はどうなるんだ!今私は宇宙からみたらさかさまの?!怖い!どこに逃げてもさかさまだ!とかで混乱して怖くなったり本当に考えすぎのめんどくさいやつなんです (笑)
話がそれましたが、
戻れないことや戻らないこと、どうにもならないことに
いつからか違和感を感じるようになってしまいました。
だから普段は考えないようにしています。
しかし悲しみや絶望が深くなるとどうしても過去やどうにもならないことに目を向けてしまうときがあります。それはまさしく閉じた扉をどうやったら開けれるかを試行錯誤しようとしている思考の戦いです。
閉じた扉はもう二度と開かないとは思いません。開くこともあるでしょう。ですが仮に開けれたとしても、
自分が望んだような形で扉の中で世界は広がっていないことは確実です。
なぜならば、必要があって閉じられた扉だからです。
閉じた扉に戻ることは前進を意味しない
このことに、入浴中に頭に降りてきた言葉のおかげで今なら理解できます。
スッとそのような考えにさせてもらえました。
いい気付きで感謝なことです。
きっと本当は、
私は進んでいたんです。
新しい事にも挑戦して、環境も変わって、
辛いことや大変なことがあって落ち込むことがあっても
何かしら私は前に進んで、進もうとしてました。
でもそれに気が付くことはできず、閉じた扉にとらわれていました。
閉じた扉をなかったことにしたら、その時はいったいなんだったんだという想いのせいもあります。
それは私自身が自分が進んでいることを自覚していなくて、
自分の時間がとまっていると感じてしまっていたからだったのだと思います。
自分だけ置いてけぼり、という感覚です。
周りからみたら「その状態で進んでいることが凄い」と、ありがたい言葉をもらったとしても、
私の中では気をつかった励ましにしか受け取れませんでした。
今感じることですが、
次の扉を開けていても、今は仮でこの扉を開けてるだけ、のような心で目を閉じてるような状態だったと感じます。
「閉じた扉はもうあかない。もう閉じってしまった扉を開こうとするのではなく次に開く扉を探しなさい。閉まった扉の次には開く扉がどこかにある」
この言葉が私にきて本当によかった。
私を支えてくれる人や、励ましてくれる人が
私が開き続けている扉に気が付かせようとしてくれていることにも気がつけた。
明かりをともす元気がなくても
ランプがあるのに気が付かなくても
傍に光るものが目に見えなくても
本当にするべきことは
新しい扉をあけて、
少しでも光を差し込ませて、次の世界をその目で見て、
そして扉を開き続けていくこと。
扉をあけると光が差し込みます。
そこには次の部屋、風景が広がっています。
自主的に灯す光でもなく
探す光でもない。
手を伸ばせば差し込んで顔をなぞる光の線。
開いた扉が明るく楽な道だとは限らないです。
困難な道もあります。
でも
今、自分が求めるものがわからなくて
仮にその時に望みがないとしても
常に新しい扉の向こうの世界の光を求めれば、
暗い部屋から出ることはできます。
自分のために頑張れない時は
誰かのためでもいいと思います。
誰かのためが力になる時もあるからです。
私はそうです。
自分のためだけには頑張れない。
それでも新しい扉を開いて進んだ景色は
他でもない自分のための景色です。
動機が、誰かのためであったとしても
誰かが支えてくれたとしても
乗り越えて進むのは自分しかできません。
乗り越えた先の新たな世界を見ることができるのは
自分自身です。
そのために必要なのは
ただ、新しい扉を開くこと。
閉じた扉はそのままにして
新しい扉をつねに探すこと。
そこに映る景色は
これから私の生涯に刻まれていく
忘れられないMementoな景色になり続ける軌跡なのだと思います。
Maho
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