─ 「集団の個」という祈り
私が好きな動物の中に鳥がいます。
私はかつて長く彼らと共に生活したことがありますが、
かれらはマイペースというよりも自由です。
彼らと一緒に生活したことがある方ならわかると思うのですが、
いつでも彼らの「個」が確立しています。
「私は私よ」というオーラといいますか。
猫とは違う自由さがあるのです。
こちらを見ているのも、観察モードのような、
面白い距離感。
かといって関係性に距離感があるというわけでもなく、
連帯感はあるのです。
私は外で空を飛ぶ野生の鳥にも同じように感じます。
私は、彼らを見ながら、
あの空の中で彼らにまざりたいとよく願います。
空を飛んで風になっている姿は憧れですが、
自分は「飛んでいるその姿」にあこがれているのか?とふと疑問に感じました。
私が願っていたのは、
飛びたい、じゃないんです。
空のなかに溶けて、一緒に呼吸したいという気持ち。
空に浮かぶ鳥たちを見ていると、
「どこか遠くへ」ではなくて「誰かとともに在る」自由を感じます。
でも私は、まだ地上にいる。
羽根も持たず、ただ風に髪を揺らしながら目を閉じているだけ。
それでも心だけは、もう彼らと同じ風に乗っている気がしてすがすがしくもあり、切なくもあります。

この「Avis」で表現された女性は、たぶん私自身なのだと思います。
彼女の足は地についている。たとえ描かれていなくても。
でもその髪は風に溶け、鳥たちと同じ流れのなかにいます。
鳥たちにまざりたい。
あの群れのなかで、自分の場所を持ちながら、
ともに飛びたい、存在したい。
Avis(アヴィス)はラテン語で「鳥」という意味です。
でも、フランス語では「知らせ」や「告知」という意味もあります。
だからきっと、彼女はただ飛びたいのではなく、
**鳥たちとともに舞いながら、“何かを届けに行く者”**なんだと思います。
風の中で、光の粒子のように、その祈りをどこかへ運んでいくように──。
この作品に込めた想いこうです:
その高さから
世界は
どう見えているの
その目で世界はどう見えているの
“どこか一人で遠くへ”ではなく
“誰かとともに在る”自由
自由と孤独のどちらも握る
空を舞う
光の粒子たち
Maho
私はこの詩の中で、
誰かとともに在る自由をずっと探しているのだと思います。
鳥のように自由でいながら、孤独ではなく、ちゃんと一緒にいるという感覚。
その感覚は実際のところ、
この現実世界で持ち続けるのは難しいです。
私のあり方は、少し不器用に見えるかもしれません。
人と深く関わることが苦手だったり、ひとりで過ごす時間を大切にしていたり。
でも、それが私にとっての自然な「自由」のかたちなのです。
誰かに依存するのではなく、かといって完全に孤立するのでもない。
「集まり」の中にいながらも、自分だけの静かな場所を保っていたい。
むしろ私は、そういう距離感の中でこそ、
ほんとうの意味で「ともに在る」ことができると感じています。
たくさんの熱や一体感に包まれるとき、かえって自分の居場所を見失ってしまうような、そんな心の揺れも、私の中にはあるのです。
そんな心の向き――
つまり「私は、いま群れと同じ風に乗れているか?」を、
数式でもそっと表してみました。
難しく感じるかもしれませんが、これは“心の風向き”の重なりを測る式です。

この式は、「その高さから見たとき、心の向きがどれくらいみんなとそろっているか」を表します。

この平均の長さ(ノルム)をとることで、
**彼女の心が、群れとどれくらい“一緒に飛べているか”**を測るのです。
- バラバラな向き → 0 に近い(孤独)
- ピタッと揃っている → 1 に近い(“ともに在る自由”)
この式は、心の静かな波長の一致度なんです。
鳥のように飛べなくても、
その高さで、同じ風に乗っている。
それを感じられることが、きっと“自由”なんだと思います。
Avisという作品は、
「いつか、まざれる気がする」っていう、
ほんの少しの希望のような光を描いたものでした。
空は飛びたいけれど、きっと一人だけでは飛びたくないと思っている。
飛んでる鳥たちは、自由とか希望の象徴と言われるけど、
私にとってはきっと
「群れの中でちゃんと自分の場所がある存在」。
自由=孤独とどこかで刷り込まれてる場面は多いけれど、
本当は「一緒に自由でいたい」。
自由とは孤独かもしれない。
でも、誰かとともにある自由も、きっとある。
私の中の「Avis」は、今も空を見上げながら、
その風のなかに、心を混ぜてみようとしています。
── Maho









その高さから
世界は
どう見えているの
その目で世界はどう見えているの
“どこか一人で遠くへ”ではなく
“誰かとともに在る”自由
自由と孤独のどちらも握る
空を舞う
光の粒子たち